■ 栗田樗堂の作品 ■

 1805年(文化2年)…1800年(寛政12年)の庚申庵創建から5年。栗田樗堂自身によって、庚申庵やその周囲の様子と共に、庚申庵での暮らしぶりや心境が綴られました。
 この『庚申庵記』には、かつて芭蕉が、『おくのほそ道』の旅の後に暮らした滋賀大津・幻住庵での生活の様子や、自身の生涯の回顧を記した『幻住庵記』の影響が強くあらわれています。
 芭蕉ゆかりの地を訪ねたいという想いを抱きながらも果たせなかった樗堂が、松山・味酒の地に、その芭蕉の風雅を求めて建てた庵でしたが、この地での暮らしは、理想とする境地とはかけ離れたものでした。

 樗堂が、俳号をまだ「蘭芝」といっていた1787年(天命7年)、松山を出て、瀬戸内、紀伊、大和、京都を旅したときの紀行文です。
 中国や日本の様々な古典、紀行文を見事に踏襲、咀嚼しており、また、なにものにもとらわれない風流三昧の旅の様子が、芭蕉の精神を受け継ぐものとして、樗堂の師・加藤暁台(かとうきょうたい)からも激賞を受けました。
 結果、この作品は『暁台七部集』に収録されることとなり、樗堂の名は、一躍全国に知られるようになりました。
 
 1798年(寛政10年)、栗田樗堂50歳での俳文集です。
 400字詰め原稿用紙にしてわずか4枚半ほどの作品ながら、樗堂の風雅に対する考え方や、優れた感受性が伺われます。
 三日月から有明の月まで、中秋の月の種々相が、10の随想と8の俳句で綴られています。

(さんむやく)
 栗田樗堂が松山を離れて御手洗島へ移住する際に、松山の俳友たちへの遺言として、庚申庵に残した書です。

一、追善集無益 やがて屏風の下張りとなる
一、塚しるし無益 終には犬糞の掃き寄せ場となる
一、追善会無益 但し湯豆腐の塩梅は思ひ出し次第の心まかせか

 「追悼の句集も、句碑も作ってくれるな、派手な法要も不要だ。思い出し偲ぶならば、湯豆腐の味加減を楽しみながらにでもしてほしい」
 自分が死んでも、ささやかな追悼にとどめてほしいという、名利を拒んだ樗堂らしい願いでした。

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